エマニエル・メッテル(1884-1941)

服部良一のピアノの上にいつも飾られていた
写真、それが恩師・エマニエル・メッテルの
写真でした。

「関西音楽界の父」と呼ばれたメッテル先生の
事を少しご紹介したいと思います。

メッテル先生のプロフィール

1884年     黒海に面したヘルソン市(現在のウクライナ)に生まれる。(ユダヤ人)
1907年     法科を卒業し、弁護士となるが、音楽家に転身。
         ペテルブルグ音楽院でリムスキー・コルサコフ、グラズノフなどに師事。

         ロシア帝室音楽院教授となり、モスクワ国立歌劇場指揮者等と歴任。

1917年     ロシア革命で、ハルピンに逃避行。ハルピン東支鉄道管弦楽団の指揮者となり、
         この楽団を一躍東洋一にする。

1926年     来日。神戸市に居を構える。大阪放送局の招きでJOBKオーケストラの指揮をとる。
        (夫人、オソフスカヤさんは宝塚歌劇学校の舞踏教師。)
         その後大阪フィルハーモニックオーケストラの指揮を初めとして、数々の演奏会を開く。
1931年     メッテル氏、喘息をわずらい、芦屋に住まいをうつす。
1933年     病気治療のために上海へ出向く。秋には元気を回復し再び日本へ。
1935年     宝塚交響楽団の指揮をひきうけるが、楽団員と感情問題からもめ、演奏会開催できず。
         その後も京大オケをはじめ数々の演奏会に参加。
1939年     メッテル氏、夫人とともに横浜港出航。アメリカへ移住。

1941年     アメリカで死去。

先生の人柄

19世紀末の指揮者の典型で、独裁的であり、ワンマンであった。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の大指揮者、アルツール・ニキシュに傾倒し、指揮者としては厳しかった。
練習中に遠慮会釈なく、楽団員を怒鳴りつけ、楽団員との間に争いのたえまがなかった。
東京の楽団にも受け入れらず、新交響楽団(N響の前身)では三回しか指揮をしていない。
メッテル氏は、プロのオーケストラよりアマ(学生)のオーケストラ(京大オケ)を愛したという。
指揮者としての厳しさの反面、ユーモアな人であったらしい。

服部良一との師弟関係

この事は服部良一著「ぼくの音楽人生」にも詳しくかかれているのですが、服部良一が大阪フィルに入った時に
自分のパートだけではなく、譜面台にミニスコア(総譜)を置いて練習をしていたのをメッテル先生に
認められ、「モットベンキョウシナサイ。」一週間に一度メッテル先生の家に通うようになったのがきっかけ
ということです。同じ時期にかの朝比奈隆さんがメッテル先生のお宅に通っていたという事なので、
まさしく服部良一と朝比奈隆さんは「同門下」になります。
東京に行ってからの服部良一はジャズにはまってしまうのですが、ある日東京の服部の家を突然訪ねてきた先生に
自分がジャズに魅せられてしまった事を正直に伝えると、「ジャズも立派な音楽です。やるからには、日本で一番
よいポピュラーソングの作曲家になりなさい。」と握手を求めてくださったそうです。
きっとそれまでは、恩師・メッテル先生に対して、罪悪感のようなものがあったに違いありませんが、
この先生の言葉にどれだけ励まされたことでしょうか。その際に「いい仕事をするためにも身を固めなさい。」と
アドバイスされ、万里子との結婚を決意したのですから、もうすべてメッテル先生のオカゲなのかもしれません。

昭和14年に大阪の楽団で練習中に楽団員を注意して、「日本男児を侮辱した」という理由で不良外人の烙印を押され
国外への退去ということになり、横浜港で服部良一らがご夫妻を見送りにいった時のエピソードが「ぼくの音楽人生」
に書かれているのですが、これがまた服部良一とメッテル先生の師弟関係をよく表しているので、ここに原文を掲載
したいと思います。

十月五日、ご夫妻は横浜港から貨客船『小牧丸』で、失意の身を自由の国・アメリカへ移すため旅立たれた。
その日、出航間近の小牧丸のデッキには、ご夫妻を囲んでぼくをふくめて住人ばかりの日本人が集まった。
「ロシアデハ、オ別レノトキハ、ミンナ、シズカニ、イスニ坐ッテ、ダマッテ、オ別レヲ惜シムノデス」
こうおっしゃって、先生は周りにぼくたちを坐らせ、一分間ばかり沈黙をつづけた。
やがて、出航の時刻がせまり、一人一人がご夫妻と最後の固い握手をして、タラップをおりた。
「ハットリサン、イツデモ、アタマアタマ、ナマケモノダメ。ベンキョウシテクダサイ」手をにぎりあって、
先生もぼくも、泣き笑いの表情を隠せなかった。美しいオソフスカヤ夫人もハンカチを目にあてたままであった。
ドラが鳴った。
突然、デッキから先生の声が飛んだ。「ハットリサン、テンポ、テンポ」そう叫んで、ハンカチを持った手で
三拍子をとり始める。日ごろ、リズムのあまりよくなかったぼくたち日本人のオーケストラに、指を鳴らしながら
激しく言われた言葉だ。次第に岸を離れていく船の上で、先生は静かにハンカチで三拍子を降り続ける。
「先生、お元気で」あとは涙、涙。
「先生、永い間のレッスン、忘れません」ぼくたちも口々に叫びながら、先生に合わせて、ハンカチや帽子で三拍子
を振った。やがて速力を増して港の外へ遠ざかって行く船の上で、三拍子のハンカチはいつまでも揺れつづけながら、
だんだん小さくなっていき、とうとう消えてしまった。これが先生との永遠の別れとなり、その後アメリカ西海岸
ビバリーヒルズの近郊で亡くなられたと噂に聞いた。(「ぼくの音楽人生」より)

その後の服部良一の活躍はみなさんご存じの通りですが、
後期の服部作品にクラシック調の作品が多いのは、やはりメッテル先生の影響なのでしょうか。

もっとメッテル先生の事についてお知りになりたい方へ・・・。

メッテル先生〜朝比奈隆・服部良一の楽父、亡命ウクライナ人の生涯」
岡野弁:著(リットーミュージック)定価3.200円
という本が出版されていますので、ぜひお読みください。